*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています
映画の自主上映会で出会って「神さまのことは学ばないとわからない。」と言ったその人は、中学生時代に友達と一緒に米国人宣教師宅で英語を習ったことがきっかけで聖書を読むようになりキリスト教信仰を持ったそうです。
「高校、大学と日曜は礼拝に通った。社会に出て数年目に思うところあってそこを離れた。聖書もこの頃はあまり読んでいない。でも、たとえば人生の岐路に立っていると感じた時、神さまは自分がどう歩むことを望むだろうかと祈り、考えます。自分の生き方と神様を切り離すことはできない。僕は結局、神は聖書が示す万物の創造主しかないと信じているんです。敬虔なクリスチャンとはほど遠いですが。」
私は「ふーん」と気のない返事をしました。面食らってそんな返事しかできなかったのです。海外の映画や、文学や、音楽に触れた時に、いまいち本質がわからないアレ=神?が、この人の中に実在するのだろうか。私とは全く別の、これまで会ったことがない種類の人だと思いました。
私は、宗教というのは、何か大変な困難に遭ってのっぴきならない状況に追い込まれた人が、直面している現実から一時的に離れ、痛み止めの注射を打つようなものだと思っていました。極限状態に置かれた人だからこそ、通常の感覚ではとても受け入れがたい神秘的なことが信じられるのだ。そこでしか得られない慰めや平安というものがあるのだろう。信仰を無意味とは思わない。けれど、それはあくまで人間の精神文化の一面であって、現実の世界にあるさまざまな問題の本当の解決にはなり得ないのではと。
次に会った時、私は彼にたくさんの質問をしました。「キリスト教の宣教師は、あちこちの国に行って『アナタノ、神サマハ、違イマスヨ』とか言って布教するのでしょう。それって独善と言えませんか?」「宗教が戦争を生むこともありますね・・・」などなど。そんな話になると彼は黙り込むことが多く、困っているようでした。でも、どうもすっきりしません。彼の沈黙の中に、何だかよくわからないけれども忸怩とした思いが透けて見えたからです。
彼はこう言いました。「キリスト教にどんな感想を持とうと君の自由だ。僕の信仰はすっかりさびついて返す刀はボロボロで無理もない。でも僕が神さまを信じたのは、それが一人の人間としてあたりまえのことだと思った。それだけなんだ。僕は、この間久しぶりに聖書を開いたよ。」
そう言われてハッとしました。人生の岐路に立ったとき神に祈る、とその人が言うのを聞いた時、私はただ単純に、男のくせに情けない、人生そんなに甘くないのでは、大丈夫っすか?と思いました。でも考えてみれば私は、キリスト教がどういうもので、聖書が神についてどう語っているのか、何ひとつ知らないのです。彼が「人間としてあたりまえだと思った」とまで言うのは、どういうことなのだろう。私にはわからない、何か大きなものが彼の心臓をつかんでいる、と思いました。
彼には高校時代に一緒に聖書研究をした仲間で、大学を卒業後に神学校に進み牧師になった友人(*)がいるそうでした。彼と私はまずその友人のいる教会を訪れ、その方の紹介で、私は当時住んでいた前橋市の、前橋キリスト教会(当時は舟喜拓生牧師)に行ってみることにしました。
(続く)
*友人:山口陽一氏/当時・同盟基督教団徳丸町教会牧師、現在は東京基督教大学学長。