10/いちばん欲しかったもの

*和紙ちぎり絵を始め、その後クリスチャンになるまでを綴りました(最終回)。

私は、一市民として責められることなく法律を守り、どちらかと言えば真面目に、普通に生きているつもりでした。でも誰にも見せない心の内面は、目も当てられないボロボロの破産状態を生きているのかもしれない。神が全知全能なら、もうとっくにそれをお見通しなのか・・・?

私は、聖書をキリスト教の教科書や参考書のようにではなく、私の人生に何か言おうとしている手紙のように読むようになりました。そうしてみると、ここがまったくもって驚いた点ですが、神は自分が罪人だと自覚した人間を、ただ断罪して地獄に落とすような非情な方ではなかった!という事がみるみるわかってきました。あの十字架の、痛ましい、でも所詮アカの他人だと思っていたイエス・キリストの死が何だったのかも。

映画の上映会で奇妙な人に出会ってから約一年後、私はクリスチャンとして生きる決心をし、その年のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。

その時の心の大転換を、私はできる限り詳しく、具体的に、小さな本(*下記参照)に書き記しました。人がキリスト教信仰を持つに至る経緯はさまざまで、百人百様の物語があります。ですから私の告白にいったいどれほどの意味があるかわかりません。でも、教会に通い始めたころの私が一番知りたかったのは、「クリスチャンって、いったい何がどうしてどうなって神さまを信じるようになったの?」というブラックボックスの中身でした。。

キリスト教を信じれば、人生の困難が解消するわけではありません。困難は予期せずしばしば訪れますし、そんな時は昔も今も、私は簡単にオロオロします。けれども、神様に心を向けて祈っていると、心にあたたかいものが流れ込んできます。そして「このできごとは神様の手の中の一つのプロセスだ。私は今すべきことに集中して、これからの展開を信じて待っていてよいのだ」という不思議な落ち着きと安心感が徐々に満ちてきます。

それは、困難の先が見えない不安から来る、自滅的な消耗から私を救い出し、お金があれば、健康ならば、誰かと比べて少しはマシなら等々の、あまりに脆い幸福感(つまりそれらを失う恐怖感)から、私を静かに解放してくれます。私は、人生で一番欲しかったものを、聖書を通していただくことができたと感謝しています。

疲れた時、悩んだ時、辛くてどうしていいかわからなくなった時。人は人を救うことはできませんが、聖書の言葉は困難を乗り越えるヒントを豊かに与えてくれます。

この記事を読んで下さっているあなたは、今どんな人生を歩まれているのでしょう。神様って本当にいるの?その疑問を抱えたままでいいのです。このコロナが落ち着いたら、あなたもどうか一度キリスト教会に足を運んでみていただけるといいなあ、と思います。(終わり)

*いのちのことば社オンデマンド版
「アメイジング・グレイス~クリスチャンになるまでの200日」

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