8/聖書を読んでみたけど

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

教会に通い始めたのは二十代後半でした。社会に出て多少の経験則を得た私は、はた目には、幾分さばけて気丈夫な感じのヒトになったみたいです。でもそう簡単に人の資質は変わるものではありません。それは身を守る鎧(よろい)みたいなもので、私は今でも新しい環境や他者の輪の中に入ってゆくことは苦手科目です。ですから当時も、教会というわけのわからない組織(に思えた)に踏み込んでゆく緊張と警戒心はとても強かったです。

巧妙なトリックに自ら飛び込んでゆくような気がしないでもない。それを自覚しながら、それでもなぜ教会に通い続けたのか。その辺のところは、私は1992年にいのちのことば社が出して下さった「アメイジング・グレイス」という小さな本に詳しく書かせていただいています。

私は仏壇と神棚のある家に育ち、大人になってからは多くの日本人がそうであるように宗教には期待せず、深入りしないことが安全で賢明なことだと、ずっと思っていました。「神も宗教も特に信じていません」と言う時のちょっと誇らしいような気分・・・(笑)。それが自立的な生き方なんだと疑いませんでした。

ですから人生のある時点で「これから私はクリスチャンとして生きることにした」と周囲に表明した時、旧友の一人からはこう言われました。
「あなたは信仰なんてなくても生きてゆける人だと思っていたのに。いったいどうしちゃったの?しっかりしてよ!」
彼女は私のことを思い、心から気遣ってくれたのです。目をさませ!と言いたかったのかもしれません。ああ彼女はほんの少し前までの自分自身だと思いました。その彼女の「どうしちゃったの?」にできるかぎり誠実に答えたい、と思ったのがその本を書いたきっかけです。

というわけでその本には、キリスト教とはまったく無縁の、ごく平凡な日本人の私が、教会という異文化に足を踏み入れた時の、何とも言えず居心地の悪い、ザラザラした違和感をつぶさに書くことになりました。以下、その部分を数か所抜粋してご紹介してみますので、よろしければお読みになってみて下さい。
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「私は努力とか忍耐ということばが嫌いです。努力も忍耐も辛いからとても怖いのです。ですから聖書を読み始めた頃は、思わず苦笑し、やがてげっそりと元気を失う箇所がたくさんあって困りました。たとえば新約聖書コリント人への手紙第一の十三章です。「愛は寛容であり、愛は親切です。……自分の利益を求めず、怒らず……すべてを耐え忍びます」
・・・(中略)・・・そこに描かれた人の姿を素晴らしいと思う気持ちと、どう逆立ちしたって私にはこんな生き方はできないし、本当はしたくもない、という本音との深い断絶をはっきりと突きつけられるからです。」

 

「罪を悔い改めて救われなさい」と聖書はしきりにその点を強調します。私は、自分が申し分のない善良な人間だとも思いませんでしたが、かと言って神の前にひれ伏して赦しを乞わねばならない罪人だという話には、何だか妙な言いがかりをつけられているような気持ちになりました。」

「そこまで「罪」を追及されたら、私はどう生きてよいやらわかりません。聖書は「神は愛です」「愛は寛容です」と言いながら、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と言います。私は不服でした。神が愛と寛容であるなら、なぜすべてを受け入れてくれずに、「死後のさばき」などと言うのでしょう。」

「失敗もする。誰かにいやな思いもさせる。みっともなく泥だらけにもなる。だからこそ明日はもう少しましになりたいと人はみな精一杯生きているのに。キリスト教の神は狭量で非情ではありませんか。」

「私はそれまで、自分が不幸な人間だと思ったことはないですし、何かを信仰する切実さも感じませんでした。それにある宗教だけを至上とするのは「狭い」気がしました。」

「西洋美術の中でしばしば目にするイエス・キリストの姿はただただ痛ましく、私の人生には直接関係のない、その意味を知らなくても何も困らない遠い西洋のカルチャーでした。」

「やはり私にキリスト教はわからないな。私は面倒な気分になり、停滞しました。わからなくても私の人生に支障はないのです。」

「アメイジング・グレイスは」1992年の刊行から11刷を重ね、2011年に新版となり、現在はいのちのことば社オンデマンド版としてAmazonで購入いただけます。

次回はたぶん最終回です。

(続く)

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