夏のポストカード「水風船」を作る

夏らしいポストカードサイズの小さなちぎり絵です。作り方をちょっと紹介してみますね。モチーフは涼を呼ぶ懐かしい水風船です。

まずは下絵。と言っても丸に適当に曲線や丸を描いただけですが…を「ユポ紙」という強めの性質を待つトレーシングペーパーに転写します。

 

そして水風船にする和紙を用意。
お好みの色でいいのですがグラデーションのある和紙を使うと一気に表情が豊かになります。

 

和紙の上にユポ紙を載せて、鉄筆でギューッと筆圧をかけると和紙に溝ができます。その線に沿って目指す形をちぎり出します。

 

水風船となるパーツをちぎったところです。台紙のポストカード(中央)に糊で貼ってゆきます。台紙は貼った時の「反り」「ゆがみ」を避けるため、絵手紙用などのなるべく厚い紙がおススメです。今回は水色のマーメイド紙を使っています。

 

貼る位置をユポ紙で確かめつつ画面の奥になる風船から貼ってゆきます。
糊は和紙に塗らず、カードにごく薄く塗りのばします。
糊の水分で台紙が湾曲してしまうので。

 

風船の上に模様を用意します。
残った和紙をカッターで軽く弧を描くように、切ってみました。

 

風船に模様線を貼り、最後に残った色紙で小さいポツ点をちぎり出してアクセントに。片隅にちょっとだけ白い落水紙をちぎって貼っています。完成です。

 

この制作プロセスは森住ゆき「和紙のちぎり絵春夏秋冬」日貿出版社刊でより詳しくご覧になれます。同書では、森住ゆきちぎり絵作品約40点と、季節ごとの簡単なカードの作り方も、下絵の型紙付きでご紹介しています。よろしくお願いします。

 

ジューンベリー

いのちのことば社月刊manna2022年6月号表紙絵は「ジューンベリー」。
ちょっとだけ私流の制作プロセスをご紹介。

まずはラフスケッチ(右)をトレーシングペーパー(左)に清書。このトレぺ画面を基準に絵を制作してゆきます。

まずは下地にワインカラーの和紙を貼り、その上に背景に素材の繊維が散った素朴な風合いの薄い紙を貼ることにしました。下地のグラデーションをうっすら拾ってほしいので。

背景の紙を2枚ぴっちり貼った上に「ボウル」用の白い私紙を貼しました。糊で貼ることで下の和紙素材が透けてしまうので、同じ紙をさらにもう一枚重ね張ります。

器の陰影のために「土佐典具帖紙」という極薄紙を使います。微妙なグラデーションが入っているので、自然な陰影にふさわしい場所がどこかないか?と探します。

めあての典具帖紙をそれなりの形にちぎり出して「影」を貼っています。

典具帖紙をもう一枚ずらして濃い目の部分を追加。ちょっと立体っぽくなってる?

色味のアクセントとなる緑の葉を貼ってみます。この時葉っぱの背後にも白い和紙を捨て貼りしています。面倒なんですが、そうしないと緑の和紙が背景の茶色を拾って濁って見えてしまうので。時々ちょっと赤みを置いて、それぞれの色あいのバランスを確認します。

まず果実の赤の基礎色を一面に貼りまして・・・

いざ粒々を貼り!ジューンベリーの色づきは濃淡あって実に複雑。そこが面白いところですね。ちぎり絵は画面の奥から貼ってゆくので、果実にかぶる葉を貼るのは最後です。

果実は事前に一杯ちぎっておきます。丸くちぎるのは、鉄筆で和紙に筆圧をかけると簡単。写真は小さなお菓子の箱にマスキングテープ(黄)を丸めて貼って、粒々を仮置きしているところ。こうしないと机上が散らかってしょうがない←自己流(笑)

粒々をみっちり貼って、ボウルのフチにグレーの和紙を貼って、と最後の仕上げに向かっております。葉の陰影を貼ってから最後に葉を貼ってゆきますl

でけた!「いざ納品発送。制作は少なくとも発行の3か月くらい前です。

モデルになったのは下の写真。

数年前に表紙絵のお仕事をいただいた「366日元気が出る聖書の言葉」の著者、岩本遠億先生がSNSに投稿されていたのをわけて頂きました。昨年ご自宅の庭での収穫だそうですが、実は器のフォルムもそのまんまですがな(笑)。感謝、感謝です!

6月の憂鬱をはじき返すような鮮烈な果実の色。熟すほどに深みを増してゆく赤色の豊かさ。いづれ写真ではなく本物を見たいです。って、まだ見たこと無いんですよジューンベリー。←えええええーっ!(汗)

柚の餅、と書いて「ゆうもち」と読むそうです。え、なんで?という疑問はとりあえず脇に置き、餅にたっぷりまぶされ超高級、阿波和三盆糖の質感をどうしたもんか、と必死に制作。

 

このお菓子、私がまだ食べた事がないと知った大頭眞一先生が、わざわざ鶴谷吉信のお取り寄せを直送してくれたのですが(何ちゅう律儀な!)、ふわっと柚が香る何ともお上品なお味の小粒餅でした。

 

 

Japanese Christian

北山杉の美しさを知ったのは、日本画家の東山魁夷画伯の作品集でした。若い頃、京都駅からバスに乗って、実際の北山街道の美林を目にした時の感動は、森閑とした山中でバスを降りたのが自分一人だった事にオタオタした記憶とあいまって今なお鮮明です(笑)。

幼苗の頃から入念に手入れされ、ひたすら垂直に屹立する杉の群生を見ていると、整然とした美しさの中に、何とも言えないある種の淋しさのようなものを感じました。ブナ林のようにおしゃべりな枝葉が呼び合うようでも、カラ松林のように空を広く抱くでもない。限りなく美しく、でもどこか切ない眺めだと。

その後何年かして、私はクリスチャンになりました。日本社会のクリスチャンは、もう圧倒的に少数派で、職場でも、地域でも、遊び仲間のうちでも、家族の中においても、その価値観と生き方において時にとても孤独な存在だと思います。少々おおげさかもしれませんが、この作品はそんな日本のキリスト者に心からのエールを込めて制作しました。私たちは、神さまが置いて下さっているそれぞれの場所で、心から喜んで生きています。
「あなたは一人ではない。決してあなたを一人にはしない」と、絶えず語りかけて下さる声の主を知ったので。

ビル街の銀杏

(2019年月刊マナ11月号表紙・2021年工房カレンダー11月使用)

数年前の晩秋、山の手線の窓から東京駅周辺の無機質なビル群を見ていた時のことです。ふと、このビル街の隙間に一瞬でもいい、黄金の銀杏並木が見えたら閃光のようだろう。と、わりと真剣に目を凝らしましたが(笑)黄金は見つかりませんでした。なので、この絵はその時のマボロシです。ビル、銀杏並木、街路灯。よく見るとこんなサイズ比はちょっとありえないし、雲の映り込み方も実際は違うでしょうね。でも、和紙でガラス建材を現すのはちょっと楽しかったです。

一枚の和紙が仕事場の保存箱に長い間眠っていて、ある日突然、これをおいて他に無い!というくらいの出番を迎える。このビルのガラス面に使った青い和紙がそうでした。画面左側のビル、雲が映り込む反射面。これはむら染め和紙の一部分を、雲の反射にあわせた位置に貼り込み、ほんの少しだけ白い薄紙でハイライトを加えただけです。右のビルの淡い反射も、同じ和紙のムラ部分をほどよい位置に持ってきて貼りました。原画のサイズは20㎝四方ほどですから用いた部分の紙のサイズは、まあ、とても小さいです。

買ってみたものの、いつ、何に使うのやら。そういう和紙が引き出しにはゴチャッとあるのですが、これだから仕事部屋が片付かないったらありゃしないです。

茜空 帰り道

(2021年 月刊マナ11月号表紙絵)
和紙をダイナミックなグラデーションに染めたものを「茜染め」と呼ぶそうです。和紙店の陳列棚でこの紙に出会った時、紙面いっぱいに美しい夕焼け空がひろがっていて、この色合いを希求した職人さんの心が沁みるようでした。 この作品はその和紙の一部分をそのまま背景に用いています。

夕焼け雲は数種類の土佐典具帖紙を貼り重ね、シルエットには濃紺の和紙を使いましたが、そもそも背景の茜色があればこその作品です。どこの誰が染めて下さったのか知ることはできませんが、その職人さんに感謝で一杯です。

「茜染め和紙」は、夕焼け色に限らず、深い海を思わせる濃紺~淡青、口紅のような緋色~薄紅、暗闇の暗黒色~薄暮色など、さまざまなバリエーションがあります。でも、考えてみれば、それらはすべて刻々と変化する空の天幕の色でもありますね。

苔庭の雀たち

(2010年月刊マナ11月号表紙・2021年和紙ちぎり絵カレンダー)

いつ頃からか忘れましたが、苔好きです。京都では苔庭のある寺ばかり行きたくなるし、苔フェス状態の深い森(八ヶ岳北麓のような)を横断する時の気分は最高です。どちらもずいぶんご無沙汰なのが残念ですが、それでも、わが庭の隅で猛暑にやられていた苔が、何事もなかったように青々している今日この頃がうれしいです。苔はいざ育てようとするとデリケートで難しいですが、一方で意外としぶといことに感心します。

なぜだか苔に心が持っていかれることと、和紙のケバケバが好きな性分はどこかで繋がっているかもしれません。なので、苔の制作はなかなか楽しかったです。何しろ緑色の和紙は、もうちぎるそばから、ん?もう苔?ほれ苔!まさに苔‼という感じでしたから。

小鳥も好きでよくモチーフにします。聖書の中に「空の鳥を見よ」という言葉があります。明日の暮らし向きの心配を手放せ。そもそもいのちはすべて神の養いのうちにあることを思い出せ。見てみろ、あの空の鳥がそうじゃないか、と。人生の曲がり角で、私は幾度となくこの言葉に励まされてきました。

種まきも、刈り入れもせず、就業もしていていない(笑)鳥が、朝に夕にこぼれ落ちた草の実や羽虫をついばんで空に飛び立ってゆく。たとえその先が曇り空であっても、さらに上は間違いなく青い空です。

 

Take off 

(2021年月刊manna10月号表紙絵)

「Take off」(離陸)は、コロナ禍の渡航制限の真っ最中に制作しました。自身はキャリーにステッカーを貼ることはしませんが、航空会社や観光地の苦境に思いをはせつつ、さまざまな国や都市のステッカーをいっぱい貼りました。

お土産用ステッカーのデザインはすべて作り手の意匠、知的財産ですから、そのままの転写流用はいけませんね。集めた資料をもとに、オリジナルな意匠をいっこいっこ再構築してレイアウトしてゆくのがすごく大変でした。そんな細部に手間取って下絵に時間を取られ、ステッカーも細部を貼るのがまた難儀で、出版社への納品がぎりぎりに。

それでも締め切りに何とか間に合ってほっとしていたら、編集部から「森住さん、シールの一部にスペルミスがありましたっ!」との連絡が。きゃああ~やってしまった!さすが私、よくあるんですよ(汗)。

もちろん本来なら差し戻してもらって修正します。が、もうそんな時間はない。窮余の策、すんごく頼りになる某デザイン事務所のN氏が、超絶技巧のデジタル処理を施してくださり事なきを得ました。

ではみなさん、ここで問題です。それはどのステッカーでしょうか?
あ~あ(苦笑)。

ちぎり絵カレンダー余話

自主制作「和紙ちぎり絵カレンダー2022年版」10月より発売です。
詳しくは「森住ゆきちぎり絵工房」にてお知らせしています。
ささやかなクリスマスプレゼントに、御年賀にどうぞご活用下さい。

ここでは、そのカレンダー制作のきっかけについて少し書いてみます。それは2010年に「教会でちぎり絵展」というビジョンが与えられた事でした。ところが実際に算段してみると、いやいやこれが大変で。見返りを求めず、教会会計に大きな負担をかけず、私自身が自滅せずに活動を持続するにはどうしたもんか…とぐるぐる模索する中でたどり着いたのが、「活動資金のためカレンダーを自力で作る!」という冒険でした。昔グラフィックデザイナーだったので多少心得があったことと、デジタル技術の進歩で印刷費が辛うじて手の届く範囲になったことが追い風になりました。

はじめての制作は2016年、出身教会のJECA前橋教会が招いて下さったちぎり絵展の時でした。それは個展というより、あくまでキリスト教会の中を見てもらう手段としての催し(オープンチャーチ)ですから、もちろん入場料はいただきません。どなたでも、期間中何度でも教会に来て、ちぎり絵を自由にご覧下いただきたい。でも、もし、もし、よろしければ、作家を応援して下さればうれしいです…と、おっかなびっくりちぎり絵展の会場に置いたカレンダーでした。

始まってみると、教会の方だけでなく、その日教会に初めて来たという方々も喜んでお買い上げ下さる様子を目撃して本当に励まされました。そして、次の展示活動に踏み出せる資金が何とか与えられ、その後の都内での展示活動につながり、やがてキリスト教書店さんにも置いて頂けるようになりました。

今は、当初から私のちぎり絵制作を支えて下さっている所属教会はじめ、かつて教会ちぎり絵展を開いて下さった皆さんが、毎年クリスマスプレゼントなどに用いて下さっています。

昨年来コロナのため予定していた教会ちぎり絵展はすべて順延となっています。でも再び原画を生で見て頂けるその日のために、今は心を込めて制作を続けています。

10/いちばん欲しかったもの

*和紙ちぎり絵を始め、その後クリスチャンになるまでを綴りました(最終回)。

私は、一市民として責められることなく法律を守り、どちらかと言えば真面目に、普通に生きているつもりでした。でも誰にも見せない心の内面は、目も当てられないボロボロの破産状態を生きているのかもしれない。神が全知全能なら、もうとっくにそれをお見通しなのか・・・?

私は、聖書をキリスト教の教科書や参考書のようにではなく、私の人生に何か言おうとしている手紙のように読むようになりました。そうしてみると、ここがまったくもって驚いた点ですが、神は自分が罪人だと自覚した人間を、ただ断罪して地獄に落とすような非情な方ではなかった!という事がみるみるわかってきました。あの十字架の、痛ましい、でも所詮アカの他人だと思っていたイエス・キリストの死が何だったのかも。

映画の上映会で奇妙な人に出会ってから約一年後、私はクリスチャンとして生きる決心をし、その年のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。

その時の心の大転換を、私はできる限り詳しく、具体的に、小さな本(*下記参照)に書き記しました。人がキリスト教信仰を持つに至る経緯はさまざまで、百人百様の物語があります。ですから私の告白にいったいどれほどの意味があるかわかりません。でも、教会に通い始めたころの私が一番知りたかったのは、「クリスチャンって、いったい何がどうしてどうなって神さまを信じるようになったの?」というブラックボックスの中身でした。。

キリスト教を信じれば、人生の困難が解消するわけではありません。困難は予期せずしばしば訪れますし、そんな時は昔も今も、私は簡単にオロオロします。けれども、神様に心を向けて祈っていると、心にあたたかいものが流れ込んできます。そして「このできごとは神様の手の中の一つのプロセスだ。私は今すべきことに集中して、これからの展開を信じて待っていてよいのだ」という不思議な落ち着きと安心感が徐々に満ちてきます。

それは、困難の先が見えない不安から来る、自滅的な消耗から私を救い出し、お金があれば、健康ならば、誰かと比べて少しはマシなら等々の、あまりに脆い幸福感(つまりそれらを失う恐怖感)から、私を静かに解放してくれます。私は、人生で一番欲しかったものを、聖書を通していただくことができたと感謝しています。

疲れた時、悩んだ時、辛くてどうしていいかわからなくなった時。人は人を救うことはできませんが、聖書の言葉は困難を乗り越えるヒントを豊かに与えてくれます。

この記事を読んで下さっているあなたは、今どんな人生を歩まれているのでしょう。神様って本当にいるの?その疑問を抱えたままでいいのです。このコロナが落ち着いたら、あなたもどうか一度キリスト教会に足を運んでみていただけるといいなあ、と思います。(終わり)

*いのちのことば社オンデマンド版
「アメイジング・グレイス~クリスチャンになるまでの200日」