10/いちばん欲しかったもの

*和紙ちぎり絵を始め、その後クリスチャンになるまでを綴りました(最終回)。

私は、一市民として責められることなく法律を守り、どちらかと言えば真面目に、普通に生きているつもりでした。でも誰にも見せない心の内面は、目も当てられないボロボロの破産状態を生きているのかもしれない。神が全知全能なら、もうとっくにそれをお見通しなのか・・・?

私は、聖書をキリスト教の教科書や参考書のようにではなく、私の人生に何か言おうとしている手紙のように読むようになりました。そうしてみると、ここがまったくもって驚いた点ですが、神は自分が罪人だと自覚した人間を、ただ断罪して地獄に落とすような非情な方ではなかった!という事がみるみるわかってきました。あの十字架の、痛ましい、でも所詮アカの他人だと思っていたイエス・キリストの死が何だったのかも。

映画の上映会で奇妙な人に出会ってから約一年後、私はクリスチャンとして生きる決心をし、その年のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。

その時の心の大転換を、私はできる限り詳しく、具体的に、小さな本(*下記参照)に書き記しました。人がキリスト教信仰を持つに至る経緯はさまざまで、百人百様の物語があります。ですから私の告白にいったいどれほどの意味があるかわかりません。でも、教会に通い始めたころの私が一番知りたかったのは、「クリスチャンって、いったい何がどうしてどうなって神さまを信じるようになったの?」というブラックボックスの中身でした。。

キリスト教を信じれば、人生の困難が解消するわけではありません。困難は予期せずしばしば訪れますし、そんな時は昔も今も、私は簡単にオロオロします。けれども、神様に心を向けて祈っていると、心にあたたかいものが流れ込んできます。そして「このできごとは神様の手の中の一つのプロセスだ。私は今すべきことに集中して、これからの展開を信じて待っていてよいのだ」という不思議な落ち着きと安心感が徐々に満ちてきます。

それは、困難の先が見えない不安から来る、自滅的な消耗から私を救い出し、お金があれば、健康ならば、誰かと比べて少しはマシなら等々の、あまりに脆い幸福感(つまりそれらを失う恐怖感)から、私を静かに解放してくれます。私は、人生で一番欲しかったものを、聖書を通していただくことができたと感謝しています。

疲れた時、悩んだ時、辛くてどうしていいかわからなくなった時。人は人を救うことはできませんが、聖書の言葉は困難を乗り越えるヒントを豊かに与えてくれます。

この記事を読んで下さっているあなたは、今どんな人生を歩まれているのでしょう。神様って本当にいるの?その疑問を抱えたままでいいのです。このコロナが落ち着いたら、あなたもどうか一度キリスト教会に足を運んでみていただけるといいなあ、と思います。(終わり)

*いのちのことば社オンデマンド版
「アメイジング・グレイス~クリスチャンになるまでの200日」

9/その時が来て

*和紙ちぎり絵を始め、その後クリスチャンになるまでを綴っています。

聖書は、わからない部分はわからないままに読むほかない書物でした。日曜礼拝の前の入門クラスは誰が参加してもよく、高校生からご高齢の方までいろいろな方がいました。一度か二度で姿を消す方もいれば、「もう長年通って教会の方とは仲良しだけど、聖書がイマイチわからなくて私はクリスチャンじゃないのよ~」と笑っている方もいました。

私が教会に行きはじめたのは1987年、オウム真理教事件の少し前です。しかし当時もさまざまな宗教団体が、強い心理的圧力を加えて信者をマインドコントロールし、経済搾取を重ねて組織拡大をはかっている事は社会問題になっていました。

けれども私の行った、いや多くのまともな教会はそうだと思いますが「信仰に踏み出すことはあくまで個人の決断」という考えが浸透していて、新来会者はもちろん、たとえ両親がクリスチャンであっても、その教会の牧師の子どもであろうとも、キリスト教信仰は自動的帰属(世襲)ではなく、何年でも(場合によっては何十年でも)個人の決断を待つのらしいのです。だからこそ、入門クラスに長く通っているという人も安心して教会に通い続けているのでしょう。

むむむ、それは、人の心というものに対してとても誠実な態度と言える。あたりまえの事だけれども「組織」としては決して簡単な事じゃないだろう。そうか。だから日本のキリスト教人口って超少ないのか⁈ ・・・などと思ったりしました。

入門クラスでも、日曜の礼拝でも「すべての人間は罪人で、イエス・キリストはその罪を救済する神です」というメッセージの根本はいつも変わりませんでした。そう言われても「いやいや私には遠い昔のアカの他人ですから」と心で思う日々はその後もしばらく続きました。

しかし、ある日ついにと言いましょうか、聖書の言葉が、私自身の現実にぴったりと重なって迫ってくる瞬間が来ました。それはあまりに内面的すぎて説明が難しいのですが、聖書というのは人間の心の奥底にひっそりと沈殿している問題に、本人がそれとわかるように迫ってくる力がある、そういう書物だということは言えます。

その時私に迫ってきた言葉というのは、新約聖書「ローマ人への手紙」の中の「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」という一句でした。これは私自身のことを言っている!そう読めたのです。

そう読めるのを、その場で即座に否定する心の自由も当然あります。ですが、私はそうしなかった。なぜかわかりませんが。

その頃の私は、結婚願望がありながらその決断ができず、恋愛の現場からいつも逃げ出して相手を残酷に傷つけることを繰り返していました。私はそれを、少女期から刷り込まれた「結婚とは恐ろしいもの」という絶望感のせいだと思っていました。でも、それは何より自分自身が快適であることへの激しい執着、他者と何かをわかちあうことを拒み、一歩も譲ろうとしない冷たいエゴイズムだったのではないか。他のどんなもっともらしい理由を挙げたとしても、それはすべて後付けだ、と気づき始めたのです。

私は、注意深くしていれば、そこそこ良い人として一生を終われるかもしれません。それがお利口さんというものです。でも、もし心の中がすべて見えたら、私はとても顔を上げて外を歩けない人間です。聖書が指摘する「罪」とはこれなのか。だとすれば私は一種の「破産状態」を生きているのかもしれないと思いました。
(続く)

8/聖書を読んでみたけど

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

教会に通い始めたのは二十代後半でした。社会に出て多少の経験則を得た私は、はた目には、幾分さばけて気丈夫な感じのヒトになったみたいです。でもそう簡単に人の資質は変わるものではありません。それは身を守る鎧(よろい)みたいなもので、私は今でも新しい環境や他者の輪の中に入ってゆくことは苦手科目です。ですから当時も、教会というわけのわからない組織(に思えた)に踏み込んでゆく緊張と警戒心はとても強かったです。

巧妙なトリックに自ら飛び込んでゆくような気がしないでもない。それを自覚しながら、それでもなぜ教会に通い続けたのか。その辺のところは、私は1992年にいのちのことば社が出して下さった「アメイジング・グレイス」という小さな本に詳しく書かせていただいています。

私は仏壇と神棚のある家に育ち、大人になってからは多くの日本人がそうであるように宗教には期待せず、深入りしないことが安全で賢明なことだと、ずっと思っていました。「神も宗教も特に信じていません」と言う時のちょっと誇らしいような気分・・・(笑)。それが自立的な生き方なんだと疑いませんでした。

ですから人生のある時点で「これから私はクリスチャンとして生きることにした」と周囲に表明した時、旧友の一人からはこう言われました。
「あなたは信仰なんてなくても生きてゆける人だと思っていたのに。いったいどうしちゃったの?しっかりしてよ!」
彼女は私のことを思い、心から気遣ってくれたのです。目をさませ!と言いたかったのかもしれません。ああ彼女はほんの少し前までの自分自身だと思いました。その彼女の「どうしちゃったの?」にできるかぎり誠実に答えたい、と思ったのがその本を書いたきっかけです。

というわけでその本には、キリスト教とはまったく無縁の、ごく平凡な日本人の私が、教会という異文化に足を踏み入れた時の、何とも言えず居心地の悪い、ザラザラした違和感をつぶさに書くことになりました。以下、その部分を数か所抜粋してご紹介してみますので、よろしければお読みになってみて下さい。
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「私は努力とか忍耐ということばが嫌いです。努力も忍耐も辛いからとても怖いのです。ですから聖書を読み始めた頃は、思わず苦笑し、やがてげっそりと元気を失う箇所がたくさんあって困りました。たとえば新約聖書コリント人への手紙第一の十三章です。「愛は寛容であり、愛は親切です。……自分の利益を求めず、怒らず……すべてを耐え忍びます」
・・・(中略)・・・そこに描かれた人の姿を素晴らしいと思う気持ちと、どう逆立ちしたって私にはこんな生き方はできないし、本当はしたくもない、という本音との深い断絶をはっきりと突きつけられるからです。」

 

「罪を悔い改めて救われなさい」と聖書はしきりにその点を強調します。私は、自分が申し分のない善良な人間だとも思いませんでしたが、かと言って神の前にひれ伏して赦しを乞わねばならない罪人だという話には、何だか妙な言いがかりをつけられているような気持ちになりました。」

「そこまで「罪」を追及されたら、私はどう生きてよいやらわかりません。聖書は「神は愛です」「愛は寛容です」と言いながら、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と言います。私は不服でした。神が愛と寛容であるなら、なぜすべてを受け入れてくれずに、「死後のさばき」などと言うのでしょう。」

「失敗もする。誰かにいやな思いもさせる。みっともなく泥だらけにもなる。だからこそ明日はもう少しましになりたいと人はみな精一杯生きているのに。キリスト教の神は狭量で非情ではありませんか。」

「私はそれまで、自分が不幸な人間だと思ったことはないですし、何かを信仰する切実さも感じませんでした。それにある宗教だけを至上とするのは「狭い」気がしました。」

「西洋美術の中でしばしば目にするイエス・キリストの姿はただただ痛ましく、私の人生には直接関係のない、その意味を知らなくても何も困らない遠い西洋のカルチャーでした。」

「やはり私にキリスト教はわからないな。私は面倒な気分になり、停滞しました。わからなくても私の人生に支障はないのです。」

「アメイジング・グレイスは」1992年の刊行から11刷を重ね、2011年に新版となり、現在はいのちのことば社オンデマンド版としてAmazonで購入いただけます。

次回はたぶん最終回です。

(続く)

7/教会に行ってみた

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

そんなわけで、私は当時の住まいから通える教会の日曜礼拝と、初心者のための聖書入門クラスというものに通ってみることにしました。

礼拝は、祈り、讃美歌、その日の聖書箇所の朗読と、牧師の「説教」で構成され、だいたい1時間半ほど。周囲の方々は信者さんなのでしょう、プログラムに従ってごく自然に讃美歌を歌ったり、目を閉じて祈ったりしていました。が、私は信じてもいないのにそうする気にもなれず、工場見学の小学生みたいにその景色をしげしげと見ていました。

ご存知の方もおられると思いますが、教会の日曜礼拝のプログラムには「献金」があります。スタイルは教会によって多少違うでしょうが、各人の席に献金を投入するちょっとした袋物が回って来る。袋が回ってくると紙幣を入れる人、硬貨を入れる人、黙礼してやり過ごす人、さまざまです。

礼拝の司会者はこう言いました。「献金は神さまに対する私たちの感謝を表わすものです。しかし、初めての方、献金に対してまだ十分な理解に至っていない方、ご用意のない方はどうぞご心配なさらず、献金袋が席にまわりましてもそのままやり過ごしてお待ちください。」
私は司会者のことばを額面通り受け取り、理解に至るまではしないと決めました。とは言え、しばらく教会に通い続ける場合、それはそれでヘンな根性?が必要だったのですが・・・(汗)

教会で聞く牧師の聖書の話は、少しはわかるような、やっぱり全然わからないような。ただ、私は説教にせよお祈りにせよ、教会で使われる言葉が「ごく普通の言葉」であることにはとても強い印象を持ちました。というのも、私はそれまでの乏しい経験ですが、宗教的な場面での言語は仏葬の読経や祭礼の祝詞などのように、難解で、非日常的で、一種異次元的なものと思い込んでいたからです。

ところがキリスト教会の礼拝では、牧師の説教もお祈りも、言葉は子供にもわかる平易なものなのです。またそのお祈りの内容というのが、人が幸福になるための願い求めだけではなく、人間の生き方そのものに関わる深さを持っていることに驚きました。

そのほかにも、信徒さんたちは牧師に敬意を払うけれども、別に神聖視することはなくフラットな関係であるらしい様子や、ある意味モノに過ぎない十字架の形やイエス像を崇めているのではないこと、教会では信仰を受け入れるか否かは個人の決断であるので何も強制はされないこと、などが徐々に見えてきたとき私はひとまず安心できました。

しかし、その一方で、礼拝の説教に必ず出て来る「人間はみな罪人で救われる必要がある」という話には、ざらざらした強い違和感を覚えるばかりでした。そして、もっと驚いたのが、教会の方々が、あの有名なマリアの処女懐胎や、イエスが十字架で死んで三日目に墓から蘇生して会衆の前に現れた事を、あくまで「歴史的事実」として堂々と信じていることでした。

前橋教会の信徒さんには地元国立大学の医学部生や、そこで教鞭を取っている(医学界では世界的な権威だという)教授もおられました。この現代文明の中で、ごく普通に社会生活を送っている人たちが、マジですか、なんでえええ~~~っ⁉ と絶句するしかありませんでした。

4/遊びをせんとや

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

私は就職してからもしばらく叔母の家に下宿させてもらい、二人の従兄妹の勉強のサポートは続けていました。仕事から帰って一緒に食事をし、宿題や自主学習が終わった後が自分の時間でした。

前の投稿で書きましたように、ちぎり絵を始めたのはある意味「渋々」です。4月に入社し、半年後の11月にはどうしても画廊の壁の持ち分を何かで埋めなければなりません。何だかよくわからないけど。仕事でもないのに。今の時代ならパワハラ案件かもしれませんね。

しかし、意外だったのは、ちぎった和紙の質感が私には新鮮で衝撃だったことです。和紙は日本に自生する草木が原材料ですが、和紙をちぎる瞬間に立ち現れる繊維質は、私が育った田舎の原風景、野山の草木そのもののように思えました。

その頃の私は、心がひどくからっぽだったのでしょう。最初は仕方なく和紙に触れているうちに、この妙なケバケバで楽しく遊んでやる、作りたいものを好きなように作るんだ!と強く思いはじめました。和紙の美しさに本当に魅了されてしまったのです。

つたなくてお恥ずかしいですが、これがその頃の作品です。赤い屋根の建物がちょっと教会っぽいですが、なぜそうしたのか今はもう全く思い出せません。深い理由はなく、教会建築はデザイン的にすてき~くらいのことだったと思います。(笑)

丘の部分は緑の和紙にわざと皺を寄せて貼り、そこにアクリル絵の具を乗せています。この時はまだ濃淡のある「むら染め和紙」の存在を知らず、単色染めが物足りなくてそうしたのですが、いわゆる「お教室」でこれをやったら、「いけません。それは反則です」と先生に叱られたことでしょう。

特に何を作りたいということもなく、落書のような下絵にただただ和紙を貼ってゆきました。そのようにして半年後に、習作をそのまんま展示!という無謀な事をやったのですが、それを会社の同僚や上司、周囲の友人たちがとても面白がって応援してくれました。そして「二人展」は、先輩が結婚して地元を離れるまで3年続きました。

デザインの現場にいたので、マーメイドやレザックなど身近にあるさまざまな洋紙や各種画材、デザイン用品も躊躇なく使いました。和紙っていいなあ~と思えば思うほど、和紙だけに固執する制作をしたくないと思いました。

その後は特に教室に通ったり、誰かに師事したという事も無くて、ずっと自己流のまま現在に至っています。
(続く)

 

 

6/大きなものが心臓を

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

映画の自主上映会で出会って「神さまのことは学ばないとわからない。」と言ったその人は、中学生時代に友達と一緒に米国人宣教師宅で英語を習ったことがきっかけで聖書を読むようになりキリスト教信仰を持ったそうです。

「高校、大学と日曜は礼拝に通った。社会に出て数年目に思うところあってそこを離れた。聖書もこの頃はあまり読んでいない。でも、たとえば人生の岐路に立っていると感じた時、神さまは自分がどう歩むことを望むだろうかと祈り、考えます。自分の生き方と神様を切り離すことはできない。僕は結局、神は聖書が示す万物の創造主しかないと信じているんです。敬虔なクリスチャンとはほど遠いですが。」

私は「ふーん」と気のない返事をしました。面食らってそんな返事しかできなかったのです。海外の映画や、文学や、音楽に触れた時に、いまいち本質がわからないアレ=神?が、この人の中に実在するのだろうか。私とは全く別の、これまで会ったことがない種類の人だと思いました。

私は、宗教というのは、何か大変な困難に遭ってのっぴきならない状況に追い込まれた人が、直面している現実から一時的に離れ、痛み止めの注射を打つようなものだと思っていました。極限状態に置かれた人だからこそ、通常の感覚ではとても受け入れがたい神秘的なことが信じられるのだ。そこでしか得られない慰めや平安というものがあるのだろう。信仰を無意味とは思わない。けれど、それはあくまで人間の精神文化の一面であって、現実の世界にあるさまざまな問題の本当の解決にはなり得ないのではと。

次に会った時、私は彼にたくさんの質問をしました。「キリスト教の宣教師は、あちこちの国に行って『アナタノ、神サマハ、違イマスヨ』とか言って布教するのでしょう。それって独善と言えませんか?」「宗教が戦争を生むこともありますね・・・」などなど。そんな話になると彼は黙り込むことが多く、困っているようでした。でも、どうもすっきりしません。彼の沈黙の中に、何だかよくわからないけれども忸怩とした思いが透けて見えたからです。

彼はこう言いました。「キリスト教にどんな感想を持とうと君の自由だ。僕の信仰はすっかりさびついて返す刀はボロボロで無理もない。でも僕が神さまを信じたのは、それが一人の人間としてあたりまえのことだと思った。それだけなんだ。僕は、この間久しぶりに聖書を開いたよ。」

そう言われてハッとしました。人生の岐路に立ったとき神に祈る、とその人が言うのを聞いた時、私はただ単純に、男のくせに情けない、人生そんなに甘くないのでは、大丈夫っすか?と思いました。でも考えてみれば私は、キリスト教がどういうもので、聖書が神についてどう語っているのか、何ひとつ知らないのです。彼が「人間としてあたりまえだと思った」とまで言うのは、どういうことなのだろう。私にはわからない、何か大きなものが彼の心臓をつかんでいる、と思いました。

彼には高校時代に一緒に聖書研究をした仲間で、大学を卒業後に神学校に進み牧師になった友人(*)がいるそうでした。彼と私はまずその友人のいる教会を訪れ、その方の紹介で、私は当時住んでいた前橋市の、前橋キリスト教会(当時は舟喜拓生牧師)に行ってみることにしました。
(続く)

*友人:山口陽一氏/当時・同盟基督教団徳丸町教会牧師、現在は東京基督教大学学長。

5/クリスチャンと出会う

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

デザイン学校を出て就職した企業の広報部は、自社製品のカタログやポスターなどの広告媒体と広報全般を扱う部署でした。社員としてデザイナーとカメラマンがいて、商品撮影用のスタジオがありました。

渋々ながらも商業デザインに進んだのは、黙々とした手仕事なら誰とも口をきかずに給料がもらえる、と本気で思ったからです。でもそれは大間違いでした。商業デザインはかなり言葉の仕事でもあったのです。
自分の親より年上の重役方に、デザインの意図を言葉で訴え、了解してもらい、予算取りのハンコをもらう必要がある。そんなこと夢にも思いませんでした。ハンドルを右に切ったはずなのに、車は左に行ってしまう。でもう戻る道もないので進むしかありません。「幸い上司や先輩に恵まれ、良い修行になりました」などと言えたのは会社を辞めて少したってからです。

それでも、会社から帰ってから細々とちぎり絵を続け、先輩と年に一度の「二人展」を続けるうちに、最初は勤務先の商品カタログに作品が採用され、やがて会社勤めと並行して地元の新聞社の出版部などから個人的に仕事をいただけるようになりました。親元を離れ、就職してほどなく叔母の支援からも独立して部屋を借り、働いて何とか一人で生きていられる。うれしかったです。

仕事のたかわらで楽しみにしていたのが、映画鑑賞です。いわゆる単館系映画(大手配給会社の興行に属さない独立的な作品)を自主上映する会で、ある男性と話すようになりました。

そこで見た欧米や中東の映画には、神なしには語れないようなものが多々ありました。確かユルマズ・ギュネイ監督(トルコ)の「路」という作品を見た直後でした。私がふと世間話のつもりで「映画に神様が出てくると、途端にわからなくなります」と言うと、その人は「神様を知るにはきちんと学ぶ必要があります。神は、人間がある日ふっと自然に理解できるようになるようなものではないので。」と言いました。その「学ぶ」という言葉に、私はとても強い抵抗を感じました。

私は、神というのは、千差万別それぞれの人が心の奥に映し出す蜃気楼のようなもので、結局は不可知な存在だと考えていました。学ぶ?神様を?いやいや「お勉強」でわかりますか?そんなはずがないでしょう、と。

それは、日本人のごくフツーの感じ方ではなかったでしょうか。その人は私が初めて出会った(遠巻きに見たり、あたりさわりのない雑談をしたというレベルでないという意味で)クリスチャンというジャンルの人でした。私がちぎり絵を始めて7年めのことです。

(続く)

 

3/和紙ちぎり絵と出会う

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

2年間デザイン学校で学んだあと、私は前橋市に本社を置く企業の広報宣伝部に就職しました。その職場の直属の上司が一風変わった人で、入社早々「会社だけの人間になるな。何か面白いことをやれ」と言い、先輩デザイナーと「二人展」を開くように、と市内のギャラリーを勝手に予約してきたのです。「じゃ、半年後(11月)に開催だからな!」と宣告されました。ギャラリーの賃料は先輩と折半ですが、つまり自分の給料から出しとけと。

特に創作意欲もなく、仕事をして給料をもらえればそれでよいと思っていた私は途方にくれました。そんな時、東京に進学した友人から私に宛てた手作りの誕生カードのことを思い出しました。「いろいろあるけど、がんばろうね」と結ばれたメッセージの脇に、和紙をちぎって貼ったフリージアの花が一枝。

あらためてよく見ると、そのケバケバは何とも素朴で、独特の描線を生んでいます。「ちぎり絵」というものらしい。周囲に誰もしている人がいない。簡単そう。これだ!と思いました。

本屋に行って「和紙ちぎり絵入門」という手引き書を買い、仕事から帰ると自室で見よう見まねで始めてみました。実際にやってみると、それは和紙以外の道具はほとんど身近にあるもの、文具店で安く入手できるもので間に合い、特に難しい技法も必要ないという事がわかりました。

と同時に、同世代で「ちぎり絵」をしている人がいない理由もすぐにわかりました。書店に並んでいるどの入門書も、お手本とされる絵柄はみな古色蒼然(失礼!)と言いますか、静的で、お行儀がよく、躍動感がない(本当に失礼ですみません)のです。

その一方で、せっかく和紙片を用いながら、限りなく西洋油彩画の筆のタッチを目指しているのだろうか?と思われる作品も多くありました。私はどうにも腑に落ちないモヤモヤした感じがしてなりませんでした。
(続く)

 

 

2/二人の従兄妹たち

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

小学校の通知表には毎年「内向的」「積極性に欠ける」と書かれ続けました。級友の群れにうまく入ってゆけない私は、そのことで親も先生もがっかりさせているんだなと思いました。転機は五年生のころ急に身長が伸びたことかもしれません。秋の運動会の徒競走で突然一位になり、6年でリレーの選手になりました。

中学で県陸連の強化選手になり、大会や合宿に明け暮れました。勉強との両立は目まぐるしかったですが、いつも張り詰めて緊張した家庭の空気から堂々と逃れる理由ができ、自分の呼吸ができる場所を得て逆に集中できる感じでした。

それが成長するということなのでしょう。小学生の頃は、家制度に忍従し続ける母をひたすらかわいそうだとばかり思っていましたが、思春期になると母はもう同情の対象ではなくなりました。私は母のようにはならない、自立するには学歴だ!と思い詰め、高校時代は何とか自力で進学できないものかと模索しました。でも当時の家庭の事情と私の実力の無さがあいまって進学はできず、高校卒業の春に進路を突然失う状態になりました。 続きを読む 2/二人の従兄妹たち

1/子供のころ

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

私は群馬県桐生市郊外の小さな農家の長女として生まれました。小学一年の秋に東京五輪があり、世の中は目覚ましい経済成長期でしたが、わずかな稲作と養蚕を営むわが家は大変厳しい暮らしぶりでした。親の、精一杯の愛情を受けて育った。それは間違いありません。ですが、気性が激しく怒りやすい父と義母に黙々と仕える母の忍耐を、朝に夕に目撃する日常は子供心にはなかなか辛かったです。

幼稚園や小学校は、何をするにも気おくれして人の輪の中に入ってゆけない子供でした。大人にも友達にも、自分の気持ちを表明することがひどく恐ろしい。今や誰も信じてくれませんが、低学年の頃は教室でほとんど口を開かない生徒でした。入学時からずっと続くその状態を心配した先生に何度も家庭訪問されて、それがまた苦しかったです

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