5/クリスチャンと出会う

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

デザイン学校を出て就職した企業の広報部は、自社製品のカタログやポスターなどの広告媒体と広報全般を扱う部署でした。社員としてデザイナーとカメラマンがいて、商品撮影用のスタジオがありました。

渋々ながらも商業デザインに進んだのは、黙々とした手仕事なら誰とも口をきかずに給料がもらえる、と本気で思ったからです。でもそれは大間違いでした。商業デザインはかなり言葉の仕事でもあったのです。
自分の親より年上の重役方に、デザインの意図を言葉で訴え、了解してもらい、予算取りのハンコをもらう必要がある。そんなこと夢にも思いませんでした。ハンドルを右に切ったはずなのに、車は左に行ってしまう。でもう戻る道もないので進むしかありません。「幸い上司や先輩に恵まれ、良い修行になりました」などと言えたのは会社を辞めて少したってからです。

それでも、会社から帰ってから細々とちぎり絵を続け、先輩と年に一度の「二人展」を続けるうちに、最初は勤務先の商品カタログに作品が採用され、やがて会社勤めと並行して地元の新聞社の出版部などから個人的に仕事をいただけるようになりました。親元を離れ、就職してほどなく叔母の支援からも独立して部屋を借り、働いて何とか一人で生きていられる。うれしかったです。

仕事のたかわらで楽しみにしていたのが、映画鑑賞です。いわゆる単館系映画(大手配給会社の興行に属さない独立的な作品)を自主上映する会で、ある男性と話すようになりました。

そこで見た欧米や中東の映画には、神なしには語れないようなものが多々ありました。確かユルマズ・ギュネイ監督(トルコ)の「路」という作品を見た直後でした。私がふと世間話のつもりで「映画に神様が出てくると、途端にわからなくなります」と言うと、その人は「神様を知るにはきちんと学ぶ必要があります。神は、人間がある日ふっと自然に理解できるようになるようなものではないので。」と言いました。その「学ぶ」という言葉に、私はとても強い抵抗を感じました。

私は、神というのは、千差万別それぞれの人が心の奥に映し出す蜃気楼のようなもので、結局は不可知な存在だと考えていました。学ぶ?神様を?いやいや「お勉強」でわかりますか?そんなはずがないでしょう、と。

それは、日本人のごくフツーの感じ方ではなかったでしょうか。その人は私が初めて出会った(遠巻きに見たり、あたりさわりのない雑談をしたというレベルでないという意味で)クリスチャンというジャンルの人でした。私がちぎり絵を始めて7年めのことです。

(続く)

 

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