9/その時が来て

*和紙ちぎり絵を始め、その後クリスチャンになるまでを綴っています。

聖書は、わからない部分はわからないままに読むほかない書物でした。日曜礼拝の前の入門クラスは誰が参加してもよく、高校生からご高齢の方までいろいろな方がいました。一度か二度で姿を消す方もいれば、「もう長年通って教会の方とは仲良しだけど、聖書がイマイチわからなくて私はクリスチャンじゃないのよ~」と笑っている方もいました。

私が教会に行きはじめたのは1987年、オウム真理教事件の少し前です。しかし当時もさまざまな宗教団体が、強い心理的圧力を加えて信者をマインドコントロールし、経済搾取を重ねて組織拡大をはかっている事は社会問題になっていました。

けれども私の行った、いや多くのまともな教会はそうだと思いますが「信仰に踏み出すことはあくまで個人の決断」という考えが浸透していて、新来会者はもちろん、たとえ両親がクリスチャンであっても、その教会の牧師の子どもであろうとも、キリスト教信仰は自動的帰属(世襲)ではなく、何年でも(場合によっては何十年でも)個人の決断を待つのらしいのです。だからこそ、入門クラスに長く通っているという人も安心して教会に通い続けているのでしょう。

むむむ、それは、人の心というものに対してとても誠実な態度と言える。あたりまえの事だけれども「組織」としては決して簡単な事じゃないだろう。そうか。だから日本のキリスト教人口って超少ないのか⁈ ・・・などと思ったりしました。

入門クラスでも、日曜の礼拝でも「すべての人間は罪人で、イエス・キリストはその罪を救済する神です」というメッセージの根本はいつも変わりませんでした。そう言われても「いやいや私には遠い昔のアカの他人ですから」と心で思う日々はその後もしばらく続きました。

しかし、ある日ついにと言いましょうか、聖書の言葉が、私自身の現実にぴったりと重なって迫ってくる瞬間が来ました。それはあまりに内面的すぎて説明が難しいのですが、聖書というのは人間の心の奥底にひっそりと沈殿している問題に、本人がそれとわかるように迫ってくる力がある、そういう書物だということは言えます。

その時私に迫ってきた言葉というのは、新約聖書「ローマ人への手紙」の中の「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」という一句でした。これは私自身のことを言っている!そう読めたのです。

そう読めるのを、その場で即座に否定する心の自由も当然あります。ですが、私はそうしなかった。なぜかわかりませんが。

その頃の私は、結婚願望がありながらその決断ができず、恋愛の現場からいつも逃げ出して相手を残酷に傷つけることを繰り返していました。私はそれを、少女期から刷り込まれた「結婚とは恐ろしいもの」という絶望感のせいだと思っていました。でも、それは何より自分自身が快適であることへの激しい執着、他者と何かをわかちあうことを拒み、一歩も譲ろうとしない冷たいエゴイズムだったのではないか。他のどんなもっともらしい理由を挙げたとしても、それはすべて後付けだ、と気づき始めたのです。

私は、注意深くしていれば、そこそこ良い人として一生を終われるかもしれません。それがお利口さんというものです。でも、もし心の中がすべて見えたら、私はとても顔を上げて外を歩けない人間です。聖書が指摘する「罪」とはこれなのか。だとすれば私は一種の「破産状態」を生きているのかもしれないと思いました。
(続く)

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