7/教会に行ってみた

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

そんなわけで、私は当時の住まいから通える教会の日曜礼拝と、初心者のための聖書入門クラスというものに通ってみることにしました。

礼拝は、祈り、讃美歌、その日の聖書箇所の朗読と、牧師の「説教」で構成され、だいたい1時間半ほど。周囲の方々は信者さんなのでしょう、プログラムに従ってごく自然に讃美歌を歌ったり、目を閉じて祈ったりしていました。が、私は信じてもいないのにそうする気にもなれず、工場見学の小学生みたいにその景色をしげしげと見ていました。

ご存知の方もおられると思いますが、教会の日曜礼拝のプログラムには「献金」があります。スタイルは教会によって多少違うでしょうが、各人の席に献金を投入するちょっとした袋物が回って来る。袋が回ってくると紙幣を入れる人、硬貨を入れる人、黙礼してやり過ごす人、さまざまです。

礼拝の司会者はこう言いました。「献金は神さまに対する私たちの感謝を表わすものです。しかし、初めての方、献金に対してまだ十分な理解に至っていない方、ご用意のない方はどうぞご心配なさらず、献金袋が席にまわりましてもそのままやり過ごしてお待ちください。」
私は司会者のことばを額面通り受け取り、理解に至るまではしないと決めました。とは言え、しばらく教会に通い続ける場合、それはそれでヘンな根性?が必要だったのですが・・・(汗)

教会で聞く牧師の聖書の話は、少しはわかるような、やっぱり全然わからないような。ただ、私は説教にせよお祈りにせよ、教会で使われる言葉が「ごく普通の言葉」であることにはとても強い印象を持ちました。というのも、私はそれまでの乏しい経験ですが、宗教的な場面での言語は仏葬の読経や祭礼の祝詞などのように、難解で、非日常的で、一種異次元的なものと思い込んでいたからです。

ところがキリスト教会の礼拝では、牧師の説教もお祈りも、言葉は子供にもわかる平易なものなのです。またそのお祈りの内容というのが、人が幸福になるための願い求めだけではなく、人間の生き方そのものに関わる深さを持っていることに驚きました。

そのほかにも、信徒さんたちは牧師に敬意を払うけれども、別に神聖視することはなくフラットな関係であるらしい様子や、ある意味モノに過ぎない十字架の形やイエス像を崇めているのではないこと、教会では信仰を受け入れるか否かは個人の決断であるので何も強制はされないこと、などが徐々に見えてきたとき私はひとまず安心できました。

しかし、その一方で、礼拝の説教に必ず出て来る「人間はみな罪人で救われる必要がある」という話には、ざらざらした強い違和感を覚えるばかりでした。そして、もっと驚いたのが、教会の方々が、あの有名なマリアの処女懐胎や、イエスが十字架で死んで三日目に墓から蘇生して会衆の前に現れた事を、あくまで「歴史的事実」として堂々と信じていることでした。

前橋教会の信徒さんには地元国立大学の医学部生や、そこで教鞭を取っている(医学界では世界的な権威だという)教授もおられました。この現代文明の中で、ごく普通に社会生活を送っている人たちが、マジですか、なんでえええ~~~っ⁉ と絶句するしかありませんでした。

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