ユポトレース紙のはなし

*ちぎり絵制作の日常をあれこれ綴っています

私のちぎり絵は、下絵をいったん細かく解体し、そのパーツを再びパッチワークのように組み合わせて制作してゆきます。その時に必ず必要なのがトレーシングペーパーです。

下絵をトレーシングペーパーに転写して用いることは、ちぎり絵の入門書で知り、最初の頃はごく普通のタイプを使っていました。

ちぎり絵の下絵は作品の設計図とも言えるので、スケッチブックにざっと描いたものを、あらためて設計図用に明快な一本の線で描き起こします。

その下絵をトレーシングペーパーに転写し、それを和紙の上にかぶせ、*鉄筆(てっぴつ)を使って描線をなぞります。すると、筆圧をかけた和紙の上に「溝」が生まれ、私はその溝に従って指でちぎってゆくのです。こうすると、ある程度の曲線も下絵どおりにちぎり出すことが可能になります。

鉄筆(てっぴつ)と聞いて、ああ、アレ!とすぐに解るあなたはもう若くない・・・失礼!これは展示会での制作風景を紹介するスライドショーの私の決まり文句です。ごめんなさい。

「鉄筆」とは、昭和時代に学校や企業などで普及していた手書きの「孔版印刷」=ガリ版で文字を書き起こすためのペンです。でも、私がちぎり絵を始めたころにはすでに文具店で絶滅しかけていました。現在私の手元にある何本かの鉄筆は、すべて出身教会の信徒で以前教師だった方々(昔は手書きでテストや通信文を制作していた)の自宅で眠っていた鉄筆をご厚意で譲っていただいたものです。

ただ、普通のトレーシングペーパーは鉄筆を一回あてると筆圧で裂けてしまいます。ですからその方法の場合、作品の絵柄は必然的にシンプルで限定的なものになりました。

ところが、ちぎり絵を始めて2年ほどたったある日、市内の印刷会社に勤めていた私の叔父が、私の下宿(している叔母の家)に腰ほどの高さの、ロール状の、すごく重くて太い丸太棒みたいなものを持ってきました。「社屋移転の倉庫整理でいろいろ廃棄するんだが、おまえコレ何かに使うか?」と。それが、きわめて強靭な工業用トレーシングペーパー「ユポトレース紙」でした。

ユポトレース紙は、印刷現場で原稿の保護材としてよく使われ、半透明ですが印刷も可能なのでちょっと雰囲気のある招待状やメニューカードなどで時々見かけます。樹脂を含んで丈夫で、防汚性にも優れていることから建築設計図面などにも使われる素材だそうです。

人からタダで物をもらうのは大好きで(笑)早速試してみたところ、ユポトレース紙は下絵の描線を何度なぞっても破れません。感動しました。上の写真はその「ユポトレース紙」を使って制作を進めているところです。

実は、ユポトレース紙は仕事の現場ではよく見かけていました。でも、普通の文具店や画材店にはないし、私にはその時までちぎり絵に用いる発想が全然ありませんでした。この時の叔父の「払い下げ品」は、私の制作スタイルを決定づけたと言えるくらい大きなことでした。

私のちぎり絵は、和紙をイメージ通りにちぎれなかったり、ちぎったピースを絵の中に置いてみて「ああ、違う、この色でない」とやりなおす事の繰り返しで出来ています。その延々とした作業に耐えるトレーシングペーパーがあればこそ成立する制作スタイルです。

叔父からもらったユポトレース紙は、60㎝×30m。大切に使い続け、その後30年近く(あらためて書くと自分でも驚きます!)約300点の制作に充てることができました。普通の文具店には置いていないので、「もうすぐロールが尽きる、どうしよう」と一時焦りましたが、ほどなくインターネット時代が到来。今はメーカーから直接購入できています。かつて絶滅種だった「鉄筆」の方も、今はネイルアートやフィギア制作などで再び用いられているそうで、ネットで簡単に入手できます。

ふと、もしもオンライン通販が普及する以前に、叔父からもらったユポトレース紙がが尽きていたらどうだっただろう・・・と思うと、ちょっとゾッとします。

 

中学生「新しい書写」2021年度版表紙

2021年度入学の中学生が、在学中の三年間ずっと使って下さる「書写」の表紙絵としてちぎり絵を使って頂きました。きっかけは、発行元の大手教科書出版東京書籍の編集者H氏が書店でたまたま私の、日貿出版社刊「思いを伝える/和紙のちぎり絵春夏秋冬」を見て下さったこと。ただそれだけの、何のつてもない、無名の私に目を留めて下さって、これほど素敵な仕事(一生に一度と思うような)をさせていただけてうれしかったです。

21世紀の新しい人のための書写の教科書は毛筆や硬筆の指導書としてだけでなく、人間の手が書いて伝えるということを大きく深くとらえて、書店の手描きPOPカード、イベントのフリップボード、ポスターやプレゼン用のリーフレットなど、社会のあらゆる情報伝達を視野に編集されていて驚きです。

今も日本のどこかで、この教科書が誰かのカバンの中で、机の引き出しで、静かに息づいて開かれる時を待っている・・・そう思うだけで本当に幸せです。

 

 

 

4/遊びをせんとや

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

私は就職してからもしばらく叔母の家に下宿させてもらい、二人の従兄妹の勉強のサポートは続けていました。仕事から帰って一緒に食事をし、宿題や自主学習が終わった後が自分の時間でした。

前の投稿で書きましたように、ちぎり絵を始めたのはある意味「渋々」です。4月に入社し、半年後の11月にはどうしても画廊の壁の持ち分を何かで埋めなければなりません。何だかよくわからないけど。仕事でもないのに。今の時代ならパワハラ案件かもしれませんね。

しかし、意外だったのは、ちぎった和紙の質感が私には新鮮で衝撃だったことです。和紙は日本に自生する草木が原材料ですが、和紙をちぎる瞬間に立ち現れる繊維質は、私が育った田舎の原風景、野山の草木そのもののように思えました。

その頃の私は、心がひどくからっぽだったのでしょう。最初は仕方なく和紙に触れているうちに、この妙なケバケバで楽しく遊んでやる、作りたいものを好きなように作るんだ!と強く思いはじめました。和紙の美しさに本当に魅了されてしまったのです。

つたなくてお恥ずかしいですが、これがその頃の作品です。赤い屋根の建物がちょっと教会っぽいですが、なぜそうしたのか今はもう全く思い出せません。深い理由はなく、教会建築はデザイン的にすてき~くらいのことだったと思います。(笑)

丘の部分は緑の和紙にわざと皺を寄せて貼り、そこにアクリル絵の具を乗せています。この時はまだ濃淡のある「むら染め和紙」の存在を知らず、単色染めが物足りなくてそうしたのですが、いわゆる「お教室」でこれをやったら、「いけません。それは反則です」と先生に叱られたことでしょう。

特に何を作りたいということもなく、落書のような下絵にただただ和紙を貼ってゆきました。そのようにして半年後に、習作をそのまんま展示!という無謀な事をやったのですが、それを会社の同僚や上司、周囲の友人たちがとても面白がって応援してくれました。そして「二人展」は、先輩が結婚して地元を離れるまで3年続きました。

デザインの現場にいたので、マーメイドやレザックなど身近にあるさまざまな洋紙や各種画材、デザイン用品も躊躇なく使いました。和紙っていいなあ~と思えば思うほど、和紙だけに固執する制作をしたくないと思いました。

その後は特に教室に通ったり、誰かに師事したという事も無くて、ずっと自己流のまま現在に至っています。
(続く)

 

 

6/大きなものが心臓を

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

映画の自主上映会で出会って「神さまのことは学ばないとわからない。」と言ったその人は、中学生時代に友達と一緒に米国人宣教師宅で英語を習ったことがきっかけで聖書を読むようになりキリスト教信仰を持ったそうです。

「高校、大学と日曜は礼拝に通った。社会に出て数年目に思うところあってそこを離れた。聖書もこの頃はあまり読んでいない。でも、たとえば人生の岐路に立っていると感じた時、神さまは自分がどう歩むことを望むだろうかと祈り、考えます。自分の生き方と神様を切り離すことはできない。僕は結局、神は聖書が示す万物の創造主しかないと信じているんです。敬虔なクリスチャンとはほど遠いですが。」

私は「ふーん」と気のない返事をしました。面食らってそんな返事しかできなかったのです。海外の映画や、文学や、音楽に触れた時に、いまいち本質がわからないアレ=神?が、この人の中に実在するのだろうか。私とは全く別の、これまで会ったことがない種類の人だと思いました。

私は、宗教というのは、何か大変な困難に遭ってのっぴきならない状況に追い込まれた人が、直面している現実から一時的に離れ、痛み止めの注射を打つようなものだと思っていました。極限状態に置かれた人だからこそ、通常の感覚ではとても受け入れがたい神秘的なことが信じられるのだ。そこでしか得られない慰めや平安というものがあるのだろう。信仰を無意味とは思わない。けれど、それはあくまで人間の精神文化の一面であって、現実の世界にあるさまざまな問題の本当の解決にはなり得ないのではと。

次に会った時、私は彼にたくさんの質問をしました。「キリスト教の宣教師は、あちこちの国に行って『アナタノ、神サマハ、違イマスヨ』とか言って布教するのでしょう。それって独善と言えませんか?」「宗教が戦争を生むこともありますね・・・」などなど。そんな話になると彼は黙り込むことが多く、困っているようでした。でも、どうもすっきりしません。彼の沈黙の中に、何だかよくわからないけれども忸怩とした思いが透けて見えたからです。

彼はこう言いました。「キリスト教にどんな感想を持とうと君の自由だ。僕の信仰はすっかりさびついて返す刀はボロボロで無理もない。でも僕が神さまを信じたのは、それが一人の人間としてあたりまえのことだと思った。それだけなんだ。僕は、この間久しぶりに聖書を開いたよ。」

そう言われてハッとしました。人生の岐路に立ったとき神に祈る、とその人が言うのを聞いた時、私はただ単純に、男のくせに情けない、人生そんなに甘くないのでは、大丈夫っすか?と思いました。でも考えてみれば私は、キリスト教がどういうもので、聖書が神についてどう語っているのか、何ひとつ知らないのです。彼が「人間としてあたりまえだと思った」とまで言うのは、どういうことなのだろう。私にはわからない、何か大きなものが彼の心臓をつかんでいる、と思いました。

彼には高校時代に一緒に聖書研究をした仲間で、大学を卒業後に神学校に進み牧師になった友人(*)がいるそうでした。彼と私はまずその友人のいる教会を訪れ、その方の紹介で、私は当時住んでいた前橋市の、前橋キリスト教会(当時は舟喜拓生牧師)に行ってみることにしました。
(続く)

*友人:山口陽一氏/当時・同盟基督教団徳丸町教会牧師、現在は東京基督教大学学長。

5/クリスチャンと出会う

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

デザイン学校を出て就職した企業の広報部は、自社製品のカタログやポスターなどの広告媒体と広報全般を扱う部署でした。社員としてデザイナーとカメラマンがいて、商品撮影用のスタジオがありました。

渋々ながらも商業デザインに進んだのは、黙々とした手仕事なら誰とも口をきかずに給料がもらえる、と本気で思ったからです。でもそれは大間違いでした。商業デザインはかなり言葉の仕事でもあったのです。
自分の親より年上の重役方に、デザインの意図を言葉で訴え、了解してもらい、予算取りのハンコをもらう必要がある。そんなこと夢にも思いませんでした。ハンドルを右に切ったはずなのに、車は左に行ってしまう。でもう戻る道もないので進むしかありません。「幸い上司や先輩に恵まれ、良い修行になりました」などと言えたのは会社を辞めて少したってからです。

それでも、会社から帰ってから細々とちぎり絵を続け、先輩と年に一度の「二人展」を続けるうちに、最初は勤務先の商品カタログに作品が採用され、やがて会社勤めと並行して地元の新聞社の出版部などから個人的に仕事をいただけるようになりました。親元を離れ、就職してほどなく叔母の支援からも独立して部屋を借り、働いて何とか一人で生きていられる。うれしかったです。

仕事のたかわらで楽しみにしていたのが、映画鑑賞です。いわゆる単館系映画(大手配給会社の興行に属さない独立的な作品)を自主上映する会で、ある男性と話すようになりました。

そこで見た欧米や中東の映画には、神なしには語れないようなものが多々ありました。確かユルマズ・ギュネイ監督(トルコ)の「路」という作品を見た直後でした。私がふと世間話のつもりで「映画に神様が出てくると、途端にわからなくなります」と言うと、その人は「神様を知るにはきちんと学ぶ必要があります。神は、人間がある日ふっと自然に理解できるようになるようなものではないので。」と言いました。その「学ぶ」という言葉に、私はとても強い抵抗を感じました。

私は、神というのは、千差万別それぞれの人が心の奥に映し出す蜃気楼のようなもので、結局は不可知な存在だと考えていました。学ぶ?神様を?いやいや「お勉強」でわかりますか?そんなはずがないでしょう、と。

それは、日本人のごくフツーの感じ方ではなかったでしょうか。その人は私が初めて出会った(遠巻きに見たり、あたりさわりのない雑談をしたというレベルでないという意味で)クリスチャンというジャンルの人でした。私がちぎり絵を始めて7年めのことです。

(続く)

 

3/和紙ちぎり絵と出会う

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

2年間デザイン学校で学んだあと、私は前橋市に本社を置く企業の広報宣伝部に就職しました。その職場の直属の上司が一風変わった人で、入社早々「会社だけの人間になるな。何か面白いことをやれ」と言い、先輩デザイナーと「二人展」を開くように、と市内のギャラリーを勝手に予約してきたのです。「じゃ、半年後(11月)に開催だからな!」と宣告されました。ギャラリーの賃料は先輩と折半ですが、つまり自分の給料から出しとけと。

特に創作意欲もなく、仕事をして給料をもらえればそれでよいと思っていた私は途方にくれました。そんな時、東京に進学した友人から私に宛てた手作りの誕生カードのことを思い出しました。「いろいろあるけど、がんばろうね」と結ばれたメッセージの脇に、和紙をちぎって貼ったフリージアの花が一枝。

あらためてよく見ると、そのケバケバは何とも素朴で、独特の描線を生んでいます。「ちぎり絵」というものらしい。周囲に誰もしている人がいない。簡単そう。これだ!と思いました。

本屋に行って「和紙ちぎり絵入門」という手引き書を買い、仕事から帰ると自室で見よう見まねで始めてみました。実際にやってみると、それは和紙以外の道具はほとんど身近にあるもの、文具店で安く入手できるもので間に合い、特に難しい技法も必要ないという事がわかりました。

と同時に、同世代で「ちぎり絵」をしている人がいない理由もすぐにわかりました。書店に並んでいるどの入門書も、お手本とされる絵柄はみな古色蒼然(失礼!)と言いますか、静的で、お行儀がよく、躍動感がない(本当に失礼ですみません)のです。

その一方で、せっかく和紙片を用いながら、限りなく西洋油彩画の筆のタッチを目指しているのだろうか?と思われる作品も多くありました。私はどうにも腑に落ちないモヤモヤした感じがしてなりませんでした。
(続く)

 

 

2/二人の従兄妹たち

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

小学校の通知表には毎年「内向的」「積極性に欠ける」と書かれ続けました。級友の群れにうまく入ってゆけない私は、そのことで親も先生もがっかりさせているんだなと思いました。転機は五年生のころ急に身長が伸びたことかもしれません。秋の運動会の徒競走で突然一位になり、6年でリレーの選手になりました。

中学で県陸連の強化選手になり、大会や合宿に明け暮れました。勉強との両立は目まぐるしかったですが、いつも張り詰めて緊張した家庭の空気から堂々と逃れる理由ができ、自分の呼吸ができる場所を得て逆に集中できる感じでした。

それが成長するということなのでしょう。小学生の頃は、家制度に忍従し続ける母をひたすらかわいそうだとばかり思っていましたが、思春期になると母はもう同情の対象ではなくなりました。私は母のようにはならない、自立するには学歴だ!と思い詰め、高校時代は何とか自力で進学できないものかと模索しました。でも当時の家庭の事情と私の実力の無さがあいまって進学はできず、高校卒業の春に進路を突然失う状態になりました。 続きを読む 2/二人の従兄妹たち

1/子供のころ

*和紙ちぎり絵との出会い&その後クリスチャンになる迄を綴っています

私は群馬県桐生市郊外の小さな農家の長女として生まれました。小学一年の秋に東京五輪があり、世の中は目覚ましい経済成長期でしたが、わずかな稲作と養蚕を営むわが家は大変厳しい暮らしぶりでした。親の、精一杯の愛情を受けて育った。それは間違いありません。ですが、気性が激しく怒りやすい父と義母に黙々と仕える母の忍耐を、朝に夕に目撃する日常は子供心にはなかなか辛かったです。

幼稚園や小学校は、何をするにも気おくれして人の輪の中に入ってゆけない子供でした。大人にも友達にも、自分の気持ちを表明することがひどく恐ろしい。今や誰も信じてくれませんが、低学年の頃は教室でほとんど口を開かない生徒でした。入学時からずっと続くその状態を心配した先生に何度も家庭訪問されて、それがまた苦しかったです

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和紙の色と光と

*ちぎり絵制作の日常をあれこれ綴っています

しばらく前のことですが某所で個展をしていた時、ふらっとご来場下さった方から「これは和紙を貼ってから彩色したのですか?どうやって?」と尋ねられたことがあります。
一瞬、質問の意味がわかりませんでした。よくお話を聞くと、その方はそれまで「和紙は習字の半紙や障子紙のような白いものしかない」と思っておられたのだそうです。
ああ、なるほど~!

確かにテレビなどで放映される「紙漉き」の和紙は決まって白い。その色のない和紙に染料をしみこませたのが「染め和紙」。それをちぎって貼るのがちぎり絵です。でも、その染め和紙があるのは和紙の専門店や画材店や手芸品売り場です。

染め和紙は単色染めも、グラデーション様のむら染めも、たいてい和紙売り場に行かなければ目にしません。しかも綺麗に折りたたんで陳列棚に収まっています。興味を持ってそれを広げてみなければ、それが染め和紙で、どんな色具合なのか知ることはほぼないでしょう。

和紙売り場がそのような陳列形式なのは、染め和紙が光源によって退色しやすくて大きく展開した陳列はできないからです。特に和紙は蛍光灯には弱くて、光を受けた部分は確実に退色してゆきます。「モノによっては3か月程で売り物にならなくなる」そうです。

染め和紙が認知されず、日本人でも、いや、もしかしたら日本人だからこそ和紙は障子紙や書道の半紙のような白いもの、と思っておられる方がいる?
むむむ、それって無理ないかもなあ・・・と思ったことでした。

 

和紙を染める小屋

*ちぎり絵制作の日常をあれこれ綴っています

私は染め和紙の何とも言えない「ぼかし」や「にじみ」といった不規則な美しさが大好きです。作品もそこに触発されたり助けられたりして続けられています。ところが、もうずいぶん前からそんな染め和紙のバリエーションが、急速に、危機的に狭まってきています。

しばらく前に、その不安を地元の和紙問屋(埼玉県/有名な和紙産地の比企郡小川町や東秩父村がある)の方に訴えた時に、こんな話を聞きました。

「かつて染め和紙は、地元農家の主婦の副業として盛んでした。農家の敷地の一角にちょっとした小屋が染め場になっていましてね。おばちゃんたちは農閑期になると和紙工房から生成りの和紙を仕入れにゆく。それを自分のセンスで好きなように染めてゆくわけです。ちょっとした小遣い稼ぎですね。

和紙の染めは、顔料の調合や刷毛さばき、染色槽から引き上げる一瞬の呼吸でその色あいが決まるものです。ハッとするような美しい和紙を染める人もいました。種類もたくさんありましたね。でも、このところそのおばちゃんたちが高齢化で次々引退しちゃってね。入ってくる品物が、もう急激に細ってしまいました・・・。」

ちぎり絵を始めたばかりの頃、入門書に「和紙は自分でも染められます」とあって、当時住んでいたアパートの狭いキッチンで染めてみたことがあります。

忘れもしない群青色の染料。何とか手順どおりできた!と思いきや、ゴム手袋を外すとホラーみたいな「青い手」に。焦った末に漂白剤を使っても(!)落ちず、翌日は仕方なくその手のまま会社に出勤して職場の人たちを驚愕させました。

結局、十分な設備もないキッチンで染めた和紙は全くたいしたコトない感じの仕上がりで、これはプロにはかなわない事だと悟りました。

染め和紙市場の縮小は、結局のところ需要と供給の問題なのでしょう。

日本の和紙漉き技術は2014年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。以来、どの和紙産地(島根県浜田市、石州半紙/岐阜県美濃市、本美濃紙/埼玉県小川町と東秩父村、細川紙)も技術伝承のため、自治体を挙げて若手の育成に力を入れています。
でもその若者たちが「食べて行ける」ような、和紙の根本的な需要の掘り起こしと産業育成はまだまだまだで、苦労と模索がずっと続いています。

*写真は制作に使っている和紙片です。